師匠を持たないノーブランド芸人で、同年代のダウンタウン、トミーズ、ハイヒールなどがNSC(NewStarCreation=吉本総合芸能学院)出身なのに対し彼女らは全く独自の素人漫才からスタートしており、本当のノーブランドで芸界入りした異色のコンビと言えるでしょうか。大阪外大(現・阪大外国語学部)出身で、いわゆる高学歴芸人のはしりとも言われており、確かに大学卒の芸人さんが目立ってきたのも彼女ら以降のように思えます(もちろんそれ以前にいなかったわけではありませんが)。
漫才ネタは、高学歴・高収入・高身長の「三高」とか今でいう婚活ネタ、またOLネタなどまさにその年代の女性には共感を呼ぶものが多かったのですが、観客の年齢幅が広い・・・と言うか高めの旧花月ではかなり苦戦を強いられていました。これは2丁目劇場と花月の両方に出ている芸人さんにほぼ共通の傾向と言えるもので、その中で花月でもある程度通用するようになってきたのがハイヒール、トミーズ、圭・修あたりでしたが、非常階段はもう一皮むけきれなかったというか、花月フレンドリーにはなりきれなかったという感じでした。
ただ、テレビ・ラジオなど電波での露出はかなり多く、ちょっとした番組の司会やレポーター、ロケなどでは重宝されていました。私の最も印象の強いのはやはりABC『ナイトinナイト火曜日』の「ギャルvsおっさん」クイズ合戦ですね(まぁ年齢的にギャルと言うのがふさわしいかどうかは不問といたしましょう)。
旧花月劇場での出囃子は渡辺美里「MyRevolution」でした。この歌詞の中に非常階段という言葉が出てくるんですね。なお、コンビ名の由来は「劇場の非常階段でよく漫才の稽古をしていたから」という説を私も長らく信じていたのですが、実際は上述のとおりだそうです。
漫才よりもタレントとして活動した方が本人たちにとってもよいのではないかと、かねてから思っていましたが、そう思っていた矢先のミヤコさんの死はあまりにも早すぎました。小学校の頃からからいつも一緒だった相方をなくしたシルクさんの悲しみは察して余りありますが、現在もその美貌?衰えず「美容番長」として今なおピンで活躍されているのはせめてもの救いです。
花月ファンなら忘れられない芸人さん…芸人さんというよりむしろアーティストという方が相応しいような、吉本では一種独特な芸風とキャラクターを持つ人でした。
ひょろっと背が高く、パリッとしたスーツ姿にベレー帽を斜めにかぶって墨汁と筆を持って登場し、舞台中央に置かれた大きな模造紙のスタンドに向かって流れるように絵を描くかえる師の姿自体が、もう一幅の絵になっていました。
漫才や落語に続いて舞台に登場するや「次は私の漫画をご覧ください」と早速スラスラと絵を描き始め、かえる師を初めて見る観客がきょとんと呆気に取られている間に早や1枚目の出来上がり。1枚目は「美しいものを美しいと思えるあなたの心がうつくしい」という相田みつをの言葉を添えた花の絵が多かったように思います。
舞台では淡々と絵を描き続けることもあれば、観客の名前を聞いて紙に書き、それを絵にしていくなど、いくつかのパターンがありました。またポケットミュージカルスなどでは、舞台を暗くして蛍光塗料で絵を描きブラックライトで照らす幻想的なステージを見せてくれることもありました。
描いた絵は観客に渡すのですが「この人絵あげてもありがとうも言わん」というギャグで笑いを誘ったり、しゃべりもなかなか洒脱な人でした。ジャズ漫画という看板はジャズをBGMとしていること、即興(=ジャズ)で絵を描くことから命名したものと思われ、大阪では他に浪花こけし師という人が同様の芸をやっていました。
昭和40年代には、吉本制作のMBSお笑いゴールデン劇場の漫画コーナー、MBSお笑い演芸館の似顔絵コーナー、またABCの仁鶴師の番組でかえるの頭のマッサージ、はたまたMBSラジオ『グアム・グアムリクエスト』の「蛙の人生相談」など、電波での活躍も多く、近年ではMBSの吉本新喜劇の劇場中継オープニングの蛙だらけのカットを描いていたのを覚えておられる方も多いと思います。
漫画家という側面では、手塚治虫氏とはライバルでありかつ盟友であり、手塚氏の逝去まで親交があったそうです。かえる師が手塚氏の作品を見て「これはかなわん」と思ったことが漫画家を断念した理由と語られています。弟子に河津吾郎、木川かじか、フロッグ西嶋など。晩年には京都精華大学漫画学科の講師も務めていました。
人前で絵を描くという芸は水森亜土さん、マンガ太郎さんなどがやっておられましたが、かえる師はその先駆けともいうべき存在で、花月の舞台では漫才や落語に挟まれつつも、その至芸で観客を唸らせ続けました。「したいことをして、したくないことはしない」を信条とし、好きな舞台で好きな漫画を描くという、本当に自分のやりたいことを全うされた人生ではなかったかと思います。
※かえる師著「かえるも昭和ふりかえる」(サンブライト出版、1985)を参考にさせて頂きました。
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当ブログに出てくるメンバーが最近やや京都花月化してきてましたので(笑)久々に大看板の登場です。
素人時代から注目を浴び続けて来たご両人、いつまでも若手だと思っていたら、今や押しも押されもせぬ漫才界の大御所となりました。話術の巧みさと年齢層を選ばず幅広く笑いの取れる芸風は今さら説明するには及ばないでしょう。特に阪神さんのモノマネは20歳代の頃から吾妻ひな子や砂川捨丸など、とても若手の芸とは思えないほどに年季が入りまくっていました。
このコンビのすごいところは、どんなに仕事を詰め込まれてもソツなくこなし上げ、しかもハズレがほとんどないことでしょう。神・巨を快く思っていなかった吉本の某上層部が彼らを潰そうとして、普通ではとても無理な量の仕事を与えたところ、それらを見事にやり遂げて皮肉にも一層実力と人気を上げる結果となった、という伝説が残されています。そしてネタの多さも飛び抜けており、ある年の正月三が日の間に劇場やテレビで延べ14本ものネタを演じ切るという離れ業もやってのけています(ABCナイトinナイト「八方の楽屋ニュース」)。
これだけのコンビですからNGK開館とともに劇場出番はほとんどNGKに移り、上席・中席・下席の10日交替制時代は月2席、つまり月のうち20日間のNGK出番が基本となりました。必然的にNGKと競合する旧なんば花月の出番はほとんどゼロとなり、旧うめだ花月でも年2〜3席を残すのみとなりましたが、旧うめだでは仁鶴師、いくよ・くるよ、チャンバラトリオなどのスケ(代演)として舞台に上がることが割とよく見られました。
テレビで演じるネタと劇場でしかやらない劇場ネタとを厳密に分けており、劇場でも1回目と2回目の興行で異なるネタをかけているのも、ネタ数の豊富な神・巨ならではの特徴と言えます。私が花月通いをしていた当時の劇場ネタは、平日2回興行の1回目は「目ぇくれ目ぇくれ」のアイバンクネタ、2回目は阪神さんの身長ネタ(靴を飛ばすやつ)をやっていましたが、ある時を境に逆になりました。1回目は団体客が多いので確実に笑いの取れる鉄板ネタをかけるのですが、2回目は仕事帰りや通りすがりのどちらかというと芸にシビアな客が多いことから新ネタや実験ネタの手見せのような雰囲気があり、劇場ネタの他にもテレビネタ(「丘を越え行こうよ〜」の歌ネタなど)をかけることが往々にしてありました。でも、どんなネタをしても確実にウケるんですね、これが。
劇場での出囃子ですが、NGKでは種ともこの『キュウリ de Vacation』のイントロで、いかにも「出て来るぞ」と言う期待を持たせる曲調となっています。
これに対し、旧うめだ花月の正式出番では落語の「せり」、スケ出番では「晒くずし」と使い分けていました。他の芸人さんがほとんどポッブスや歌謡曲を出囃子としているのに対して何とも古風ではありましたが、これはこれで大看板の風格も感じられたものです。「せり」が鳴り出してめくりが「阪神巨人」に変わった瞬間客席から歓声と拍手が起こるのも毎度のことという感じでした。
旧なんばでは神・巨を見たことがないので出囃子は不明でしたが、ある詳しい方から外国テレビドラマ「外科医ギャノン」のテーマ曲だったというご教示を頂きました。
岡八郎師の前に入門していた三代目林家染三師は三代目染丸師門下で、四代目染丸師や故・小染師の兄弟子に当たりますが、六代目笑福亭松鶴師との確執から上方落語協会を離れ、関西落語文芸協会を立ち上げ独自の活動をしていたためメジャーな劇場や電波にはあまり乗ることのない人でした。ご両人にはもちろん上述のとおり高座名もありましたから、落語の稽古も付けてもらっていました。この時の落語の素養も、漫才芸の幅の広がりにかなり活かされているのではないかと思われます。
旧うめだ花月での高座風景です。バックに寿の文字が入っているので1月中席か下席だったと思います。このときも正式出番ではなく誰かのスケだったように記憶しています。
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旧うめだ花月劇場とほとんど歩みを同じくした関西奇術界の大御所的存在。吉本マジシャンズ最古参のひとりでした。同じく花月劇場で活躍したマジック中島、横木ジョージ・レミなどはこの人の門下生です。
最初に入門した帰天斎一門は「浮かれの蝶(胡蝶の舞)」など和妻の名家で、今も六代目正一師などが継承しています。堀師はいったん正旭の名をもらいながら和妻は継承せず西洋マジックに転向、堀ジョージとして花月の舞台を踏むようになります。
この人の本業は奇術師よりも手品ネタの研究開発者という方が実態に近く、実に多彩なマジック用品を作り出してきました。その拠点となっていたのが堀奇術研究所であり、自らが舞台で使用するネタや道具も自作の商品。舞台がすなわち商品の見本市でもあったわけですね。なお、堀師亡き後の堀奇術研究所は、堀師の門下生の皆さんが引き継いで堀奇術研究会として再スタートし、手品道具の販売とマジックの講習、ボランティア公演などの活動を続けておられましたが、現在はホームページも閉鎖され、活動されているのかどうかが不明な状態です。
一時期、かなり年齢差のある若奥様を後見に、ジョージ・たま美として出演していた時期がありましたが、あまり長い期間ではなかったようです。
花月の舞台では、まずオートバイがエンジンを吹かすブワン、ブワンという音とともに幕が上がり、キィィィーッというブレーキの音でBGMが始まります。あとは音楽にあわせて淡々とマジックを進めていきます。BGMは愛のコリーダとかやや古めのジャズやソウルのような洋楽をつなげたもので、後半は必ず聖者の行進のフルコーラスで締める、というパターンでした。この聖者の行進には3つぐらいのバージョンがあり、どれも演技の最後を飾るにふさわしい華やかな曲調で終わるものでした。
とにかく長年のキャリアを誇るベテランですから、時代により演技内容はどんどん変わっていったのでしょうが、私が花月通いをしていた昭和末期〜平成初期には大ネタとかイリュージョンの類はなく、いたってシンプルなステージマジックをしていました。
前半のネタはロープやシルクハンカチを使ったり、細かくちぎった新聞紙が元に戻るというようなスライハンドマジックから始まって、次第にシックスリングス(金属製の輪がつながったり離れたりするリングマジック)のような中ネタに移り、堀マジックの最高峰ともいうべき中華セイロが登場します。
中華セイロとは、直径30センチ・高さ40センチぐらいの円筒を2本入れ子にして、カラであるはずの円筒の中から果物やフラワーを出したり、最後にはなんと水のいっぱい入った壷が出現するというものです。安田悠二師の演技を見ますと、堀師とほとんど同じ手順を踏襲されています。この後、壷に円筒と布をかぶせて気合いを入れると壷が消滅します。私はこのネタを何度も見ましたが、壷が出現・消滅するところは未だに仕掛けがまったくわかりません。そして最後はらんまん(鍋の蓋のようなものを開けるとフラワーがびよよ〜んと飛び出るやつ)で大団円、という流れでした。
旧花月劇場の末期は、元漫才コンピ新谷のぼる・泉かおりのかおりさんが堀めぐみという名で後見を務めていました。のぼる・かおりは手品をミックスさせた漫才で売っていたので、彼女は後見にうってつけ。ジョージ師の奇術の途中でひとりで舞台に立ち、ベタベタな漫才口調のしゃべりをしながらネタばらし手品やインチキネタを数点やって笑いを取るというコーナーもありました。
一陽斎蝶一師のように頭が燃え上がったり、松旭斎天正師のように身長が異常に高かったりという際立ったエピソードがあるわけでなく、吉本マジシャンズの中ではあまり目立たない存在の堀師でしたが、技術面ではピカイチで安心して見ていることが出来ました。Mr.マリックなどのような「超魔術」とはまた趣が異なる、よい意味でのアナクロな「奇術」を堪能させ、のこしてくれた人ではなかったかと思います。
(上)旧うめだ花月での華やか?なステージです。ロープを用いたマジック。
めくりの「奇術」という文字は堀師の場合、字数の関係で縦書きでした。
(下)上手側に立っているのが堀めぐみさん。ショートヘアの小柄なかわいいおばさんでした。
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花月ファンならずとも説明不要な超有名コンビ。コメワンの名は知らなくてもアホの坂田の名は確実に人口に膾炙しております(笑)
とにかく坂田師のアホ芸は、松竹新喜劇のアホボンこと故・藤山寛美師、強烈なボケで鳴らしたラッパ・日佐丸の故・2代目平和ラッパ師のアホ・ボケパワーをさらに濃縮し臨界超過に達してしまったような破壊的な趣があり、今の日本でこれだけのアホを演じることの出来る人はもういないのではないかと愚考します。
めくりは2種類の存在を確認しており、左がなんば花月、右がうめだ花月のそれぞれ閉館まで使われていたものを画像化したものです。となると、京都花月のものはどんな意匠だったのか興味が湧きますが、今となっては知る術がありません(泣)
NGK開館後も一切出演することなく、旧なんば、旧うめだ、京都をぐるぐる回される旧花月劇場専属芸人でした。テレビ等ではそれなりに顔が売れていたのですが、当時の吉本は電波と劇場の扱いに厳密に一線を引いていたのでしょうか。NGKに看板さんをごっそり奪われてしまった悲惨な旧なんばと、もとから悲惨な京都の2館ではトリを務めることも多かったようです。旧花月劇場消滅後はNGKにもコントなどで出演するようになりました。
旧花月時代の出囃子は『コロンビア・大洋の宝』 (Columbia, the Gem of the Ocean) という、1943年にD.T.ショーが作曲したアメリカの愛国行進曲で、日本でも大昔、NHK「みんなのうた」で日本語詞バージョンが「海のマーチ」として放送されていたそうです。出囃子には明るいマーチ調に編曲されたインストバージョンを使用していたのですが、私はこの曲がとてもとても好きで、ケータイの着メロに使いたいと思っていたぐらいです(笑)
このコンビを最も強烈に印象づけるアイテムは何といっても「アホの坂田」のレコードでしょう。
男女混声合唱隊の「アホっ、アホっ、アホっのサカタっ」と投げやりっぼく吐き捨てるようなコーラス、アホを治すには蚊取り線香を粉にしてそばに振りかけて食え、という支離滅裂な歌詞は吉本新喜劇作家陣の重鎮竹本浩三先生、そして作曲は浪花のモーツァルトことキダ・タロー先生のゴールデンコンビによるもの。これは大ヒット間違いなしと思いきや、「さかた」姓の人がいじめに遭うなど一部で人権問題化していることが判明し、レコードは廃盤となり放送禁止曲扱いされるという深刻な事態となってしまいました。現在では、テレビで坂田師の登場時に流れるお約束ソングとして復活を果たしています。
もう一つ有名なのがご両人の不仲。漫才コンビは多少仲が悪いのが普通で、またそれが舞台での一種の迫力にもつながって来るという説もあるぐらいですが、コメワンの場合はとにかく顔を合わせるのは舞台の上だけで後は全く知らん顔、ここほど仲の悪いコンビも珍しいというのが芸人さんたちの一致した見方のようです。
ともあれ、仲が悪いなりにも我々はその芸をもう少しは楽しめそうかなと思っていた矢先の、あまりにも後味の悪すぎる解散劇。一世を風靡したコンビだけに、さまざまな修羅場を切り抜けてここまで来られたに違いないですし、事件の真相がどうなのかはともかく、芸界を追われた格好となってしまった前田さんの無念さは計り知れないものがあると思います。
救いは、坂田師が今もお元気で舞台を務められていることでしょうか。
ご高齢にもかかわらず皆を楽しませ、笑わせ続けている坂田師を見ていると、アホも努力と才能なんやな…とつくづく感じます。
旧うめだ花月での高座風景です。お客さんガラーンとしてますねえ…
もっとも、う花の最前列から見た舞台はかなり高いところにあり、大変首が疲れる席でもあるんですね。
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さあ旧花月ファンの皆様お待たせしました!漫談の滝あきら師の登場です。どんどん突っ込みまくってください(笑)
もう何とも言いようのない味のあるもっちゃりとしたしゃべりで、社会風刺をしてるつもりがまったく風刺に聞こえない(笑)不思議な話術の持ち主でした。
まあ最近は女性もおしゃれになって、顔じゅう赤とか青とか黄色とかいっぱい塗りたくって、ほんで出来た顔があんた、京都の五色豆みたいになってまんねや。
三船敏郎、ビールのCMで唇についたビールの泡をふっと吹いて「男は黙ってサッポロビール」。このギャラがなんと1億円でっせ!泡吹いて1億円。うちの親父、泡吹いて死んだがな。
神田正輝と聖子ちゃんの結婚式、聖子ちゃん抱きかかえられてましたわ。あれで集まった祝儀3億円やて。神田正輝は聖子ちゃん抱いて3億円。わたい、こないだホテルで女抱いて3万円取られ、いやあのね・・・
この、話が危うい方向へ行きかけたときの「いやあのね」が滝師の持ちギャグというか、笑いのポイントの一つでした。
時事ネタとかもそれなりにありましたが、この人が言うとなぜか信憑性に疑義が生じるというか、正しいことを言ってても「ほんまかいな」と思ってしまうことがよくありました。
芸人さんの間でも「滝師匠はウソが多い」などとよく言われていたそうですが、決してだまそうとかという悪意のあるウソではなくて単なる思い違いが多かっただけに過ぎないらしく、滝師の人柄を慕い愛する芸人さんたちが親しみを込めてそう言っていたのでしょう。
ただ、年齢と「ヅラ」に関しては亡くなる直前まで他人に真実を告げることがなかったそうで、松本人志氏によると「滝師匠が、ずっと否定してたヅラをラジオで告白して1週間後ぐらいに亡くなった。もうええ、て思たんやろな」とのことだそうです。
なかなかの資産家で、副業(本業?)でお好み焼き屋を経営していたそうです。ある日、キャベツが値上がりすることを察知した滝師は急遽トラック数台分のキャベツを仕入れて、そのほとんどを腐らせてしまったという逸話も残っています(相羽秋夫「演芸おち簿ひろい」)。
師匠の滝井健二師については詳細がほとんど不明です。ご存知の方がおられたらご教示ください。ただ、滝師の本名も滝井姓なので、親族関係にあった方かも知れません。
一番弟子の滝トールは、現在もKBS京都ラジオ「滝トールのおつかれさん!」や奈良テレビ「演歌百撰」の司会などで活躍中。「演歌百撰」は数年前までサンテレビでも見ることが出来たのですが、ネットを取りやめたようですね。九十九一は師匠に嫌気がさして名古屋、東京へ出て行ってしまったと聞いたことがあります。村上ショージはその反対で、師匠が亡くなるまで甲斐甲斐しく世話をしていたとのことで、同じ弟子でもこんなに違うものかと思わされます。
上述のとおり、私が旧花月通いをしていた昭和末期から平成初期にかけては、滝師は舞台で「吉本で漫談という看板は自分ひとり」とおっしゃっていたのですが、その前には吉本では桃山こうた(桃山こう太)という人が、ブラックユーモア主体の「黒の漫談」と称する話芸で旧花月の舞台に立っていました(相羽秋夫『現代上方演芸人名鑑』)。他にも漫談と銘打っていた人もいたのかも知れませんが、この時期には確かに漫談の看板でやっていたのは滝師ただひとりでした。
花月での出囃子は落語の「晒くずし」。ひととおりしゃべり終えて「また聞いてもらいます、おおきに」と言って舞台を降りるのが通例でした。
旧うめだ花月の閉館がアナウンスされた後の舞台では、いつもの漫談に加えて「私ら芸人はイタ(舞台)の上で死ななあかんと思てまんねん」という、何かを悟ったかのような言葉を口にされていたように記憶しています。
1990年3月31日、私は旧うめだ花月閉館日の客席にいました。
通常興行が終わり、舞台上にはうめだ花月に別れを告げる芸人さんたちで一杯となったところ、一階客席最後部の入口からハンドマイクを持って「毎度おさわがせします…」と現れたのが滝あきら師でした。そのままマイクでいろいろ喋りながら通路を通って舞台へ上られるまでの間、客席も舞台上も万雷の拍手の渦…
ボタンの借金・浮気ネタが鉄板ですが、大師匠であるダイラケ師譲りの正統派しゃべくりネタを数多く持つコンビです。布団ひいて風邪引いて寝てたんやとか、風邪を引いた風邪薬に風邪を引いてない風邪薬を飲ませて風邪を引いた風邪薬の風邪を治して風邪を引いた君がのんだらええんやなどのナンセンスな言葉遊びや、ボタンのツッコミにカウスが笑い転げる仕草もダイラケテイスト溢れる味わいといえるでしょう。旧花月時代の出囃子は、ジャズのスタンダードナンバーと思われる軽快なクラリネット曲でした。
NGKが開館したのちもしばらくは旧花月劇場主体の出演で、旧なんばではトリ、旧うめだではトリorモタレという感じの位置でした。旧花月の消滅後は当然ながらNGK出番が増え、トリを取るまでにはかなり時間がかかったものの、今はNGKの大看板となっているのはご承知のとおりです。
若い頃のカウスはイタズラ好きでも有名で、特に人生幸朗師がよくターゲットにされていたようです。飛行機の中でカウスが備え付けの毛布を人生師のカバンにこっそり入れ、夜中に人生師宅に航空会社を名乗って「毛布が足りないのですが」と電話。カバンから本当に毛布が出てきて人生師大パニック・・・てな具合です。
カウスは仁鶴師とともに吉本興業特別顧問に就任しましたが、暴力団との関係を問われたことから同職を退くという一幕もありました。その後、何者かに暴行を受けるという事件も発生し、本人は否定するものの依然裏社会との結びつきがささやかれているのは、正統派しゃべくりの至芸を持つ彼らにとってなんとも悔やむべき汚点としか言いようがありません。
カウス・ボタンの師匠はダイマル・ラケットだとよく言われますが、上述のとおり中田アップが直接の師匠です。当時アップはアップ・ダウンというコンビを組んでいましたが、その前は中田スナップの名でチャック(元吉本新喜劇の泉ひろし)と組んだり、目まぐるしく相方を変える人でした。一方、敏腕な実業家としての一面も持ち合わせており、松竹所属だったダイラケ師が角座のトリを降ろされたことに義憤を覚え、師を吉本へ移籍させるという大胆な工作を行ったのもこのアップさんでした。
撮影年月は覚えていませんが昭和末期でしょうか、とにかく旧う花の閉館直前です。閉館は1990年でしたから、その2〜3年前ぐらいではないかと思います。
写真右側に立っている表示板が本日の番組(出演者の出番表)。 出番表の1回目と2回目の間の模様のある所に代演(スケ)の紙が張ってありましたねぇ〜
「○○都合により休演 △△代演致します」という縦長の紙だったように記憶しています。
例えば、チャンバラトリオ休演でスケが阪神・巨人の日とかはラッキーって思いました(チャントリさんごめんなさい)。 残念ながら出番表の文字がよく見えないのですが、2回目のトップがメリ・マリ、次がいくよ・くるよ…電波の仕事か何かの都合で早い出番となっているのでしょう。 その後はローラーズ、由紀子・たか志、どんきほーて、トリの文珍、吉本新喜劇がかろうじて読み取れる程度です。いくくると文珍の二枚看板ですから、今のNGK並の強い番組ですね。
下の写真は、1989年の正月興行時のう花入口です(MBS「新春ワイド寄席」映像)。 この時は昭和64年。1月8日から元号が平成に変わりました。
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旧花月劇場では月2席のレギュラーメンバーとして長らくおなじみの顔で、旧花月なきあともNGKによく出演していました。カード等を使ったスライハンドマジックから大ネタのイリュージョンまで芸域は幅広く、万人向けのステージマジックといった感じで、花月では傘がやたらと出てくるパラソルプロダクションや万国旗ネタをよくかけていました。
舞台の華やかさで言えば、旧花月時代の吉本マジシャンの中では随一だったのではないかと思います。他にも、和妻と呼ばれる日本古来の奇術にも取り組んでいました。
師匠は吉本の古株マジシャン・堀ジョージ師。プロデビューはうめだ花月でしたが、その数ヶ月前にうめだのポケットミュージカルス「堀奇術研究所マジックショー」に出演したのが初花月出番だったようです(堀奇術研究所については後日、堀ジョージ師のめくりの時に詳述します)。
吉本を離れた理由はご本人に聞かないと分かりませんが、数年間にわたって各地の観光ホテル等で長期公演を続けたのち松竹に移籍し、定席の浪花座に出演していました。
2009年には松竹にも別れを告げてフリーとなり、一時期京橋花月などの吉本系劇場に復帰しましたが、現在は活動をほぼ休止し、タクシードライバーをされているそうです(マジック中島オフィシャルブログ)。
上方落語界最年長の落語家であった。2019年2月22日老衰のため死去(享年93)。
(→ wikipedia笑福亭松之助)
ご本人の弁を借りれば「おなじみ、さんまの師匠でございます」。落語家、喜劇役者、俳優、作家としてのマルチな活躍ぶりは古くから知られ、テレビではドラマや吉本系のコメディーなどによく出ていました。私が最も印象深いのは、約30年前の『ABCナイトINナイト火曜日』の「おっさんVSギャル」と「松ちゃんのセンチメートルジャーニー」ですね(古い話ですんません…)
もともと古典落語に対する思いの強い人で、ネタ数もそこそこあるようなんですが、花月で演じるネタはたいてい天才バカボン。
舞台に登場するや浮かぬ顔つきで「何人かが義理か厄介みたいにパラパラと拍手するだけで、あとはみんな知らーん顔」などのぼやきトークから始まり、テレビの話題へ、そして「中でも天才バカボンは面白いですな〜」と話が変わり、バカボンの喋り方を使えば夫婦ゲンカは起こらないとか、うだうだ喋ってから「もう少しお喋りせんならんと思うんですが、これでいいのだー」で締めるという、この人の鉄板ネタでした。
このバカボンネタは、昭和40年代前半に自作したというテレビ・アラカルトのネタの一部を抜き出したものです。もともとはテレビ番組にかかわる中小ネタをいくつもつなぎ合わせて1本の噺としたもので、いろいろな番組やCMが取り上げられこき下ろされて?いました。このテレビ・アラカルトの音源としては『上方落語大全 朝日放送1080分落語会実況録音盤』 (テイチクレコード,1972 )がありますが、この当時はまだバカボンネタはなく、タイガーマスクや仮面ライダーなどが俎上に乗せられています。
(動画:https://youtu.be/JVD-pT5l54o)
出囃子は「新曲浦島」ですが、花月ではデキシーランドっぽいジャズ調の曲で登場していました。このほか、YMOの「ライディーン」を出囃子に登場し、笑いの少ない「三十石」を演じて「ライディーン」で降りた、という伝説もあるようです。
自分の弟子には基本的に「笑福亭」ではなく、本名から採った「明石家」という亭号を与えました。本当に落語を志すことが確認できるまでは笑福亭は与えないという、ここにも古典落語への強い思いが現れているように思えます。
その一方で、弟子の実家の家業に関連した名を付けるという奇抜さもあり、明石家小禄、明石家さんまをはじめ明石家パーマ、明石家サドル、明石家パンツなどが実在したそうです(明石家小禄は五所の家小禄となったのち廃業)。
趣味の水泳ではマスターズで優勝するなど、90歳を過ぎた今なおバリバリ現役の「芸界の鉄人」であります。
「落語 笑福亭松之助」というめくりが出ているのがおわかりでしょうか。
ちょうど「天才バカボン」を口演しておられるところです。バカボンネタでもちゃんと見台と膝隠しを使っているのが立派というかさすがですね。「これで、いいのだぁー」
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ご両人ともギターを持って、音楽ショウという看板でやっていました。最新の歌謡曲をネタにすることはほとんどなく、たいていは少し前のヒット曲から相当昔の流行歌を演奏したり唄ったりしては、合間にベタな漫才を挟むというスタイルでした。音楽のキャリアは長いらしく、歌や演奏は安心して聴いていられましたが、喋りで笑いが起こることはそんなになかった印象です。
ネタのひとつに「歌のしりとり」があり、割と新しい歌謡曲から始めるのですがだんだん古い曲しか出てこなくなり、「我々古い歌ばっかり唄てるな」で落とすという趣向でした。
また、古賀さんが副業(本業?)でカラオケの先生をやっているという話を志歌さんがよくネタにしていました。「漫才だけやと食て行かれへんもん」という感じで…。
ちなみに、志歌さんは元・和菓子職人、古賀さんは吉本新喜劇の第一期研究生という経歴をお持ちだそうです。
出囃子はバンジョーによる軽快なカントリー調の曲。音曲漫才というとテーマソングが付き物ですが、私が花月通いをしていた昭和末期にはご両人のテーマソングはなく、いきなりネタに入っていました。
一方、終わりは必ずエンディングテーマで締め。
【ザ・ダッシュ エンディングテーマ】
わけの分からぬ ことばかり
やってるうちに 別れの時が
いつの間にやら やってきた
グッバイさよなら再見(ツァイツェン)アディオス
また会う日まで ヘイ!
この最後の「ヘイ!」とともに数歩下がって一礼する仕草が、何となくカッコいいなぁと思っていました。
テレビにはほとんど縁のなかった、いわゆる「花月に来ないと見られない芸人さん」の筆頭格でしたが、それだけに花月に欠かすことの出来ない舞台芸人さんの心意気が「ヘイ!」に込められていたのかなと、今から思えばそんな気がします。
このめくりを見て反射的に責任者出てこい!!というフレーズが頭をよぎる方は、もうそこそこのご年配ではないでしょうか。いや責任者出てこい!!というフレーズ自体は今も知る人は多いのでしょうが、それが幸朗・幸子という名前と結びつくかどうかは覚束ないのではないでしょうか。
私が花月通いをしていた昭和末期、人生さんは既に鬼籍に入っていましたが、その昔、私が中学生のころ親に連れられて行ったなんば花月で、たまたまご両人の出番にお目にかかったので、今回はその時の記憶を綴ってみた次第です。
なお、このめくりは「上方芸能」165号に掲載されていた河内家菊水丸師所蔵のなんば花月のめくり実物写真を模写して作成しました。
出囃子は大正琴による浪花小唄のイントロで、なんで当時中学生がそんな歌を知ってるのかと言われそうですがそれはともかく、めくりが出るや客席大いに沸き、いつものパターンで漫才が進み、いやが上にもボルテージが上がって行きます。この時は五木ひろしの歌で「川は流れる橋の下て当たり前やないか!川が橋の上流れとったらどないすんじゃ!」などと吠えておられました。とにかくこの人のぼやきは並木路子のリンゴの唄にまで遡りますから、もう相当年季が入りまくっていますね。
「ぼやきおやじ」というと頭が古く固いというイメージですが、人生さんはその時々の歌謡曲はもちろん流行語などにも敏感で、すかさず漫才に取り入れていました。このへんの柔らかさが一層ぼやき口調を際立たせていたのではと思います。
私が人と喋っている時「まぁ皆さん聞いてください」「どつきまわすぞ」「ごめんちゃい」「我がまま勝手なことばかり申し上げまして」などというフレーズが今もって口を突いて出てくる時があり、人生さんの影響力たるや恐ろしいもんやなぁと観念しております。近畿圏出身者で私と同年代以上の者は「ぼやき」が血肉の一部となってしまっている、そう申し上げても過言ではないでしょう。現在、こだま・ひびきがぼやきっぽい漫才をやっていますが、やはりどっか違うなぁと思ってしまいます。それはやはり幸子さんの的確かつ鋭利なツッコミあってこそで、今も「この泥亀!」「ハナクソ!」「よだれくり!」などは秀逸なフレーズとして脳裏から離れません。
ちなみに、人生さんは前名が「航路」であったこともあり、幸朗の読みは「こうろう」ではなく「こうろ」が正式です。笑福亭鶴光を「つるこ」と読むのと同じ理屈…とはちょっと違うかな(笑)
それでは、皆さまのご健康とご発展を心よりお祈り申し上げ、本日のめくり高座予定終了でございます。
ちょっとマニアックなめくりが続いたので(笑)、今回は久々に看板クラスのめくりをご覧頂きます。
テレビや高座での活躍ぶりは改めて記すまでもありませんが、ニューウェーブ落語を始める以前は、短髪で丸眼鏡の地味なスタイルで、「芸名桂文珍、本名滝廉太郎でございます」というこれまた地味なギャグの目立たない落語家という印象でした。この人に関しては、ある時期を境に急に変わったような、そんな気がします。
多数のレギュラー番組を抱えていた時期はスケジュールの都合か洋服姿のまま登場して立って喋るスタイルの時も結構ありました。この時の出囃子はジャズっぽい洋楽を使っており、ジャズ漫画の故・木川かえる師のバックミュージックと同一の曲だったように記憶しています。ネタは漫談か「老婆の休日」などの自作ネタをかけることがほとんどで、古典ネタは聴いたことがありませんでした。
NGKにおいても当初は立ち喋りの漫談スタイルばかりでしたが、タレント活動から落語へ比重を移すのと合わせるかのように徐々に落語高座スタイルが増えて来たように思います。
出囃子は「円馬ばやし」ですが、旧花月でもこれを使っていたかは不明です。
私が花月通いをしていた時分はマジカル落語ではなく普通のステージマジックをされており、花月劇場ではマジカル落語を見ることが出来ませんでした。私が唯一この人のマジカル落語を見たのは読売テレビ『お笑いネットワーク』で、手品のネタ販売員と客との会話という設定でカードや小道具を使ったマジックを演じるというものでしたが、この他にも「子ほめ」などの古典ネタをベースにしたものもいくつか存在したそうです。
ステージマジックをする時のめくりは赤文字が奇術でしたが、マジカル落語の時はやはりマジカル落語だったのでしょうか。
この人のステージマジックは、人体切断とか空中浮揚とか瞬間移動などという大ネタはなく、あくまで手練の技術を見せるスライハンドマジックが主体でした。花とか小道具を出したり消したり、細かく破った新聞紙が元通りになったり、シルクハンカチの色を一瞬にして変えたり、そういうネタを淡々とやっていくという感じでした。
たいていはひとりで出ていましたが、たまに奥様と思われる女性が後見を務めている時もありました。その時は、後見の首に輪っかを嵌め、その後ろから長い剣のようなものを刺すという、たけし師にしては大ネタの部類に入るであろうマジックを最後にやっていたのを覚えています。
バックに流れる音楽はT-SQUAREの「Love is in my sight」「Overhead kick」「宝島」などをつないだもので、マジックの内容に比べるとなかなかセンスの良いものでした。
複数の資料によると、たけし師には酒癖が悪い一面があったそうで、酔って舞台に上がって失敗するというようなこともあったようです。亡くなったのも過度の飲酒による疾患が原因だとする見方もあります。
亡くなったとき、新聞等で枝雀の弟、死去みたいな書き方をされていたのを覚えています。こんな書き方をするから、弟の死を悼む枝雀師の精神状態に余計な悪影響が及んでしまったのではないかと思えてなりません。
なお、一陽斎蝶一師のところでも書きましたが、松旭斎を名乗る奇術師は日本で数名、大阪では松旭斎滉洋師、松旭斎小天正師とその門下の松旭斎天蝶さんがいらっしゃいます。
平成1〜2年頃、旧うめだ花月閉館間際に撮影したものです。ちょうどシルクハンカチのネタをやっているところでしょうか。基本的に小ネタばかりなので舞台上には道具の類はほとんど何もありません(笑) 芸風は堀ジョージ師と似た感じです。
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